2025-3-16『なぜ神は人となられたか』山本修一牧師

聖書:フィリピの信徒への手紙2:1-11

 今日、最初にお話したいことは、「慣れ」ということです。私たちキリスト者が、聖書を読んでいて、注意しなければならないこと、闘っていかなければならないことは、「慣れ」です。聖書を何回も読んでいると、「慣れ」「緩み」が生まれます。初読の頃とは違い、聖書を読んでも、新鮮味、驚き、感動、刺激がなくなる時がやってきます。その慣れを放っておくと不信仰、不従順、優柔不断、妥協の原因になりやすいのです。
 本日の聖書箇所は「キリスト讃歌」といわれ、内容的にはキリスト教信仰の心髄であり、心深く動かされる歌詞です。
「なぜ神であるイエスは人となられたのでしょう」。第一に、私たち人類の罪を十字架を通して赦すためでありました。私たちは、罪があがなわれなければ、神のもとに帰ることができないのです。第二に、真の謙遜と従順を示すためでした。主イエスは、神の大能、力、栄光に全く執着されずに、そのすべてを捨てて、人間となられた・・ほどに謙遜でありました。さらに主イエスは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
 聖書でいう謙遜は、控えめであるという一般の謙遜とは異なります。謙遜は、天の国に入るために必要な資質です。山上の説教では「天の国は貧しい人たちのものである」といわれました。心の貧しい者とは、一言でいえば「謙遜な人」です。最後に主イエスは「柔和で謙遜なわたしから学びなさい」(マタイ 11:29)と呼びかけておられます。主の招きの声に耳を傾けることが、慣れ、習慣を克服する第一歩となるでしょう。

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