聖書:列王記下20:1-7,12-13,16-19
死に瀕していたヒゼキヤ王に、預言者イザヤが主の言葉を取り次ぎました。「あなたはやがて死ぬ。生きながらえることはない」。ヒゼキヤの涙の祈りに主は応えてくださり、なんとその寿命は15年延ばされました。
そのことを王がどれほど喜び感謝の祈りをささげたことか。しかしそうしてホッとしたときこそ気をつけなければなりません。病気見舞いに訪れた新興勢力のバビロンの大使の求めるままに、王は宝物庫の全てを見せました。王国と自身の権力を自慢したくなったのでしょう。大使は王宮の見取り図から財宝のリスト、防衛体制まで全てをバビロンに報告したに違いありません。
イザヤはこれらの貯え全てがバビロンに運び去られる日が来ることを預言、そしてそれは現実となりました。
ヒゼキヤは死の宣告を受けた時に痛感したはずなのです。人は裸で生まれ裸で死ぬことを。死の予行練習をしたことで、人生何を求めるべきか、何を手放すべきか、思い知ったはずなのです。それなのに、教訓は活かされませんでした。
私たちも必ずやがて死にます。残された時間を最大限生きようと思います。しかしなかなか長続きはしません。日常の忙しさに埋没していきます。
だからいつも礼拝のたびに十字架に立ち返ります。神が何をしてくださったのかを思い出し、何を求めるべきで何を手放すべきなのか、新たにされてここからまた遣わされます。
