2025-2-9『それでも祈れる理由』山口紀子牧師

聖書:使徒言行録12:1-17

 ステファノの殉教をきっかけに始まった迫害の手は、ヘロデ王が加わったことでさらに激しくなります。使徒ヤコブが殺害され、ペトロまでもが逮捕されました。祈っても祈っても次々「悪いこと」が起こるにもかかわらず「教会では彼(ペトロ)のために熱心な祈りが神に献げられてい」ました。なぜ心折れることなく祈り続けることができたのでしょう。

 解放されたペトロを見て教会は驚いていますから、祈りながらも心底信じきれていなかったともいえそうです。彼らも私たちと何ら変わらない。ところが神はそんな小さな信仰、祈りを超えてみわざをなしてくださるのです。
 一方で彼らは悪いことが悪いままで終わらなかったことも体験しています。迫害により散らされたことで思いもよらぬ形で福音が広まりました。迫害者サウロさえ、また異邦人さえ救われることもわかりました。そうであるならこのことにも意味がある。ペトロの逮捕を通してみわざが成るよう祈ったに違いないのです。

 時は除酵祭、キリスト者にとっては受難週です。キリストの受難とペトロの受難が重なります。主の脇腹の痛み(死)は、私たちを罪から解放しました。ペトロの痛みは彼の解放につながりました。現代の私たちも様々な痛みを味わっています。しかし十字架があるから復活があるように、先は見えなくても、今の痛みも必ず意味がある。だから祈れます。

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