2026-8-9『ここぞとばかりにアブラハム』山口紀子牧師

聖書:ローマの信徒への手紙4:1-12

 ロマ書を建物にたとえるならば、今私たちは信仰義認の部屋にいます。まず罪の宣告がなされ「しかし今や、神の義が現わされました」とキリストの福音が提示されました。

「人は神の恵みにより価なしに義とされ」ます。それでは人は何を誇ればいいのか?信仰は律法を無効にするのか?その問いに対してパウロは人には何も誇るものはないこと、信仰はむしろ律法を確立すると断言し、ここ4章で、ここぞとばかりにアブラハムをその例に挙げるのです。

 信仰義認は今、急に降って湧いたことではない。私たちの信仰の父アブラハムがすでにそうだったでしょう?義認は行いによってなのか信仰によってなのか、はっきりさせようではないか!というのです。

 パウロが引用したのは創世記15章。75歳をとうに過ぎ、なお子のないアブラハムは自分たちの可能性を探し、人間を、状況を見ていました。しかし神は神のことばを、そして星空を「見よ」と言われます。「あなたの子孫はこのようになる」と。彼はその神のことばを信じました。

「アブラハムは神を信じた。それが神の義と認められた」のです。

ハランを出発した時でもなく、息子イサクを献げた時でもありません。これらの「行い」ではなく、神の言葉、約束をそのまま信じたときでした。

 

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